2013/09/08

記事:ジャンボ、私の青春 残り4機来春引退 機長ら別れ惜しむ

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ジャンボ、私の青春 残り4機来春引退 機長ら別れ惜しむ

紙面写真・図版
ジャンボの操縦シミュレーターに座る藤村弘機長=東京都大田区の全日空訓練センター
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点検する整備士の渡辺光夫さん=羽田空港、越田省吾撮影
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パーサー当時の荷見三七子さん(中央)。ジャンボの2階にはラウンジがあり、一部の客室乗務員は鶴の模様のドレスを着た=1973年ごろ、本人提供
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離陸する全日空のジャンボ=羽田空港
 ボーイング747型機、通称ジャンボが来春、日本の空から姿を消す。登場から40年余。ずんぐりした巨体は日本に大量輸送時代をもたらし、海外旅行を身近にした。ともに歩んだ人たちが別れを惜しむ中、より燃費のよい787型機などの新鋭機に道を譲る。
 日本の旅客機のジャンボは現在、全日空の4機だけで、羽田と沖縄、札幌を結ぶ。全日空は1990年代には最大で39機を運航し、パイロットも600人以上いたが、5月に50人を切った。全日空は老朽化が進む機体を順次売却し、来年3月までに引退させる。
 ■大きさにしびれた
 藤村弘機長(56)は、全日空にジャンボが就航した79年に入社し、90年にジャンボの副操縦士になった。バブル景気のまっただ中。全日空は国際定期線に進出し、ジャンボのパイロットを増やしていた。出発前の点検で、全長約70メートルの機体を1周するのに10分近くかかり、「あまりの大きさにしびれた」と振り返る。
 当時、全日空で米本土までの航続距離がある大型機はジャンボだけ。国際線の初フライトでロサンゼルスに着陸後、乗客をコックピットから見送ると、「こんなにたくさん乗っていたのか」と驚いた。
 「最終便は自分で飛びたいけど、涙もろくて。前が見えなくなっては困る」。ジャンボの担当部長として、最終便の操縦桿(かん)を誰に任せるか、じっくり考えている。
 74年入社の整備士、渡辺光夫さん(58)は、中学の修学旅行で訪れた羽田空港で、外国から来たジャンボを初めて見た。
 「こんな大きな飛行機が空を飛ぶとは。空への憧れをかき立てられました」
 91年にジャンボの整備資格を取り、現在は整備部門の専門部長として、羽田空港の約650人の整備士を束ねる。「私はジャンボに育ててもらった」と、先輩の一足早い引退を惜しむ。
 ■女性の進出に一役
 女性の働き方も変えた。日本の航空会社の女性で初めて、客室乗務員の責任者であるチーフパーサーになった元日本航空の荷見(はすみ)三七子(みなこ)さん(70)は、「道をぐーんと広げてくれた」と語る。
 日航のジャンボ導入は、全日空より早い70年。それまで国際線の主流だったDC―8型機は130人乗りで、客室乗務員は女性スチュワーデス(現キャビンアテンダント)と、指示役の男性パーサーの計6人が乗務した。ジャンボでは3倍の客室乗務員が必要となり、日航は71年、女性にもパーサーの門戸を開いた。「男性になめられてたまるかと、機体が揺れても声が震えないようにこらえました」
 当時のスチュワーデスの定年は30歳。独身女性に限られ、2、3年勤めたらお見合いして退社するのが通例だった。それが74年に独身規定が廃止され、80年には年齢制限も撤廃された。
 荷見さんは女性初の客室本部副本部長を経て退社。女子大でマナーや接客を教える今も、本社を訪れると、かつて指導した後輩たちが駆け寄る。「ジャンボは私の青春そのもの。乗れたことが誇り。感謝の思いで送りたい」
 (工藤隆治)
 ■海外を身近にした 85年には墜落事故
 ジャンボは、高嶺(たかね)の花だった海外旅行を庶民のものにした。航空会社が大量の座席を埋めるため、団体運賃を大幅に割り引いたからだ。日航のハワイ7日間パック旅行は、68年は30万4850円だったが、70年にジャンボが就航すると14万3千円に。円高も追い風に、就航から10年で日本人の海外旅行者は6倍近い年間390万人に急増した。
 大きくて遠くまで飛ぶ。就航と同年にデビューしたプロゴルファーの尾崎将司選手は、大柄な体格と飛距離から「ジャンボ尾崎」と呼ばれるようになった。
 物流も変えた。ニュージーランドのキウイ、ハワイのパパイア、福岡の早生(わせ)イチゴ――。74年に日航の貨物専用ジャンボが登場すると、海外や地方の新鮮な果物を羽田に届け、テレビや自動車部品を輸出した。都心のホテルでは、「日航ジャンボで直輸入」が売り物の生花店が登場。自動車のF1レースが日本で初めて開かれた76年には、26台のF1マシンを米国から羽田に1機で運んだ。
 一方で、大量輸送はひとたび事故を起こせば、取り返しのつかない被害が生じることを思い知らせたのもジャンボだった。85年、群馬県の御巣鷹の尾根に日航機が墜落。単独事故では史上最悪の520人が死亡した。日航は機体の一部や乗客の遺書を羽田空港で公開し、公共交通の安全を考える原点として、社内外の約11万人が見学に訪れている。
 ◆キーワード
 <ジャンボ> 米ボーイング社の747型ジェット機。1969年以降、1472機が製造され、日航が112機、全日空が47機を導入した。前部が2階建て。政府専用機にも使われ、国内仕様は500席以上ある。エンジンが四つあって燃費が悪く、日航が経営破綻(はたん)する一因になった。燃費のよい「747―8型」が開発され、日本貨物航空は貨物機での運航は続ける。

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