2013/09/13

記事:体験レポート:子連れで台湾旅行、LCC活用でメリットも

http://www.travelvision.jp/destination/detail.php?id=58742

  • 2013年9月3日(火)
  • 台北からわずか1時間半でこんなに緑深い山まで行ける。烏来は日本にもありそうな温泉郷だ 夏休みや冬休みなどの長期休暇が可能で学校が休みになるシーズンは「子連れ旅行」が増える季節。ただし、旅行のトップシーズンで旅行代金も高く、予算の都合から海外旅行を諦めるケースも多そうだ。また、旅行先が遠距離の場合、荷物が多くなるなど準備の手間も増える。その点、台湾は東京から約3時間と近距離にあり、子どもが楽しめるアクティビティも多い。加えて、台湾へは注目の高まるLCC各社も就航しており、手ごろな運賃で子連れ旅行が楽しめるのではないか。今回はLCCの中でもスクート(TZ)を利用した、子連れの台湾旅行の可能性を探った。
    温泉郷で1日遊ぶ、子どもも楽しい日帰り旅行
    個室の温泉は子どもと一緒に入るのにちょうどいい。高級ホテル「ポーズランディス」も日帰り利用可能トロッコの乗車料は片道50台湾ドル。ほんの5分でも子どもは大喜び“パワースポット”とも言われる落差80メートルの烏来瀑布 台湾は子連れ旅のデスティネーションとしてはあまり知られていないが、実は子どもが喜ぶアクティビティもある。
     台北駅から路線バスで約1時間30分、あるいはMRTの新店駅から同じバスで30分で行ける烏来は温泉郷で、台北からの日帰り旅行の人気スポットだ。山間の温泉街といった雰囲気は日本とよく似ており、日帰りで利用できる温泉施設が数多く点在する。子連れの場合は個室のみ利用が可能、という施設もあり、周囲に気を配らなくていいこと、また水着を着用しなくてもいいことなどからおすすめだ。
     また、河川敷には公共の無料露天風呂もある。こちらは簡単な着替えるところがあるが貴重品を置いておく場所がないので、利用の際には注意が必要だ。
     温泉のあとは烏来老街を抜けてトロッコ電車に乗ろう。烏来瀑布まで、乗車時間はほんの5分ほどだが景色もよく、なによりもかわいらしいトロッコは見るだけでも子どもがとても喜ぶ。“終点”の瀑布駅からはケーブルカーに乗ることができ、これで山頂にある雲仙楽園まで行ける。ちょうど烏来瀑布の上を通る絶景も見どころだ。
     雲仙楽園は緑豊かな庭園で、子ども向けのプレイグラウンドがあるため家族連れにも人気だ。動物園もあるものの動物はほとんどいないので、ただ緑の中でのんびり遊ぶことを目的に訪れたい。

    九フンで街歩きを楽しむ
    九フンは夜の雰囲気こそユニークなので、できれば1泊したい もうひとつ、子どもでも楽しめるのが九フン。台北の忠孝復興駅から路線バスで約1時間、金鉱で栄えた山間の街で、閉山した今は観光地として人気だ。烏来と同じく台北から日帰り旅行で訪れる人も多いが、夜の景色が独特なので1泊してもいいかもしれない。
     お土産物屋が立ち並ぶメインストリートには日本のアニメ映画のモデルになったといわれる場所もあり、ノスタルジックな雰囲気だ。細長い通り沿いには実にさまざまなスイーツや軽食を売る店がひしめいており、散策するには1時間はみておきたい。お菓子の実演販売など、小さい子でも興味深くできあがるのを見つめたり味見をさせてもらったりと有意義に過ごすことができる。
     また、黄金博物館や煤鉱博物館など、体験型の見学施設もあるようなので小学生以上の子ども連れならばそれらに立ち寄ってもいいだろう。


    LCCのスクート、成田/台湾線は7440円から


    成田/台湾路線の機材はボーイングB777-200型機。来年にはB787を導入するという話も 今回の台湾旅行はフルサービスキャリアではなく、LCCのスクート(TZ)を利用した。同社は2012年10月から成田/台湾/シンガポール線を就航しているLCCで、シンガポール航空(SQ)の子会社だ。
     LCC元年といわれた昨年からLCCはなにかと話題になってきたものの、その安さの仕組みなどはそれほど一般消費者に知られていないように思う。単に「ものすごく安い」というイメージを持っている人が多いが、実際はホテルや空港からの送迎料金を入れるとパッケージ商品のほうが安くなることもある。
     だが、突然思い立って出かけたり、パッケージでは行動しにくい子連れ旅行などの場合、いつでも安い運賃というのはありがたい。TZではエコノミークラスのFlyで、成田/台北間は片道7440円から、成田/シンガポール間は1万3440円からで提供しており、需要に合わせた変動制で料金が決定。燃油サーチャージは必要ない。ピーク時でも早く予約すれば、台湾まで7440円で行くことが可能だ。
     TZ日本地区総代理店(GSA)のエア・システムによると、現在成田線のロードファクターは約9割で、ほぼ満席で推移。シンガポールへの乗客も増加しつつあるが、まだ台湾への乗客がほとんどだという。

    LCCの特徴を踏まえた旅の準備を
    機内はいたって“ふつう”。子連れでも準備さえしておけばLCCのサービスだけで十分 LCCを利用する際、特に子連れの場合は機内サービスが限られているため、事前に情報を得ることが必要だ。成田/台湾間はわずか約3時間のフライトだが、機内食、エンターテイメント、毛布などがすべて別料金。小さな子ども連れで快適に過ごすためには、事前に準備するか出費してこれらを利用する必要があるだろう。パッケージツアーでは食事と預け荷物料金が込みの「Fly Bag Eat」を利用しているのかもしれないが、FITでは必ず事前準備が必要だと感じた。
     座席は2-4-2のプレミアムエコノミークラス32席と、3-4-3、2-4-2のエコノミークラス370席の配列。エコノミークラスは、バルクヘッド席付近は別料金となっているので、バシネットの利用が必要な場合は追加料金を払って座席を指定する必要があるので注意しよう。シートピッチは31インチとフルサービスキャリアと変わらなく、狭いとは感じない。小さな子ども連れならば座席幅にも余裕があり、ハード面では不都合なことは一切ないと言えるだろう。
     ちなみに、案内がないので気づかない人も多そうだが、乗客が自由に汲むことができる飲用水のサーバーがギャレー近くにあるので便利だ。それ以外はいたってふつうのフライトであり、特にTZは機材が新しく、フルサービスキャリアに比して遜色ないといえる。
    台湾旅行はいろいろ見学しながらのぶらぶら歩きが楽しい また、スケジュールでは、成田発は12時10分とお昼時だが、台北発は6時50分発とかなり早い。ホテルを出るのは4時、場合によっては3時半ということもあるだろう。子どもを起こすのは一苦労だが、寝不足ゆえ機内では眠ってしまうので、むしろ退屈したりお腹が空いたりといったことがなくて子連れには楽である。
     夏休みや冬休みなど、子どもと旅行ができる時期というのはトップシーズンであるため予算の都合から海外旅行をあきらめる人も多そうだが、フルサービスキャリアよりも運賃設定が低めなLCC なら 安価に抑えることが可能。荷物を減らすことができない子連れ旅行でも比較的短い滞在の台湾旅行ならば機内預け荷物15キログラムまでのプランで問題なさそうだ。
     近場で気軽に行ける旅先、台湾。子連れでも十分な楽しみがあるし、コストがセーブできるLCC利用もそれほど苦労を感じないため、選択肢の一つとして考えられるのではないか。
    取材協力:スクート(TZ)
    取材:岩佐史絵

2013/09/08

記事:ジャンボ、私の青春 残り4機来春引退 機長ら別れ惜しむ

http://digital.asahi.com/articles/TKY201309070491.html?ref=comkiji_txt_end_s_kjid_TKY201309070491

ジャンボ、私の青春 残り4機来春引退 機長ら別れ惜しむ

紙面写真・図版
ジャンボの操縦シミュレーターに座る藤村弘機長=東京都大田区の全日空訓練センター
紙面写真・図版
点検する整備士の渡辺光夫さん=羽田空港、越田省吾撮影
紙面写真・図版
パーサー当時の荷見三七子さん(中央)。ジャンボの2階にはラウンジがあり、一部の客室乗務員は鶴の模様のドレスを着た=1973年ごろ、本人提供
紙面写真・図版
離陸する全日空のジャンボ=羽田空港
 ボーイング747型機、通称ジャンボが来春、日本の空から姿を消す。登場から40年余。ずんぐりした巨体は日本に大量輸送時代をもたらし、海外旅行を身近にした。ともに歩んだ人たちが別れを惜しむ中、より燃費のよい787型機などの新鋭機に道を譲る。
 日本の旅客機のジャンボは現在、全日空の4機だけで、羽田と沖縄、札幌を結ぶ。全日空は1990年代には最大で39機を運航し、パイロットも600人以上いたが、5月に50人を切った。全日空は老朽化が進む機体を順次売却し、来年3月までに引退させる。
 ■大きさにしびれた
 藤村弘機長(56)は、全日空にジャンボが就航した79年に入社し、90年にジャンボの副操縦士になった。バブル景気のまっただ中。全日空は国際定期線に進出し、ジャンボのパイロットを増やしていた。出発前の点検で、全長約70メートルの機体を1周するのに10分近くかかり、「あまりの大きさにしびれた」と振り返る。
 当時、全日空で米本土までの航続距離がある大型機はジャンボだけ。国際線の初フライトでロサンゼルスに着陸後、乗客をコックピットから見送ると、「こんなにたくさん乗っていたのか」と驚いた。
 「最終便は自分で飛びたいけど、涙もろくて。前が見えなくなっては困る」。ジャンボの担当部長として、最終便の操縦桿(かん)を誰に任せるか、じっくり考えている。
 74年入社の整備士、渡辺光夫さん(58)は、中学の修学旅行で訪れた羽田空港で、外国から来たジャンボを初めて見た。
 「こんな大きな飛行機が空を飛ぶとは。空への憧れをかき立てられました」
 91年にジャンボの整備資格を取り、現在は整備部門の専門部長として、羽田空港の約650人の整備士を束ねる。「私はジャンボに育ててもらった」と、先輩の一足早い引退を惜しむ。
 ■女性の進出に一役
 女性の働き方も変えた。日本の航空会社の女性で初めて、客室乗務員の責任者であるチーフパーサーになった元日本航空の荷見(はすみ)三七子(みなこ)さん(70)は、「道をぐーんと広げてくれた」と語る。
 日航のジャンボ導入は、全日空より早い70年。それまで国際線の主流だったDC―8型機は130人乗りで、客室乗務員は女性スチュワーデス(現キャビンアテンダント)と、指示役の男性パーサーの計6人が乗務した。ジャンボでは3倍の客室乗務員が必要となり、日航は71年、女性にもパーサーの門戸を開いた。「男性になめられてたまるかと、機体が揺れても声が震えないようにこらえました」
 当時のスチュワーデスの定年は30歳。独身女性に限られ、2、3年勤めたらお見合いして退社するのが通例だった。それが74年に独身規定が廃止され、80年には年齢制限も撤廃された。
 荷見さんは女性初の客室本部副本部長を経て退社。女子大でマナーや接客を教える今も、本社を訪れると、かつて指導した後輩たちが駆け寄る。「ジャンボは私の青春そのもの。乗れたことが誇り。感謝の思いで送りたい」
 (工藤隆治)
 ■海外を身近にした 85年には墜落事故
 ジャンボは、高嶺(たかね)の花だった海外旅行を庶民のものにした。航空会社が大量の座席を埋めるため、団体運賃を大幅に割り引いたからだ。日航のハワイ7日間パック旅行は、68年は30万4850円だったが、70年にジャンボが就航すると14万3千円に。円高も追い風に、就航から10年で日本人の海外旅行者は6倍近い年間390万人に急増した。
 大きくて遠くまで飛ぶ。就航と同年にデビューしたプロゴルファーの尾崎将司選手は、大柄な体格と飛距離から「ジャンボ尾崎」と呼ばれるようになった。
 物流も変えた。ニュージーランドのキウイ、ハワイのパパイア、福岡の早生(わせ)イチゴ――。74年に日航の貨物専用ジャンボが登場すると、海外や地方の新鮮な果物を羽田に届け、テレビや自動車部品を輸出した。都心のホテルでは、「日航ジャンボで直輸入」が売り物の生花店が登場。自動車のF1レースが日本で初めて開かれた76年には、26台のF1マシンを米国から羽田に1機で運んだ。
 一方で、大量輸送はひとたび事故を起こせば、取り返しのつかない被害が生じることを思い知らせたのもジャンボだった。85年、群馬県の御巣鷹の尾根に日航機が墜落。単独事故では史上最悪の520人が死亡した。日航は機体の一部や乗客の遺書を羽田空港で公開し、公共交通の安全を考える原点として、社内外の約11万人が見学に訪れている。
 ◆キーワード
 <ジャンボ> 米ボーイング社の747型ジェット機。1969年以降、1472機が製造され、日航が112機、全日空が47機を導入した。前部が2階建て。政府専用機にも使われ、国内仕様は500席以上ある。エンジンが四つあって燃費が悪く、日航が経営破綻(はたん)する一因になった。燃費のよい「747―8型」が開発され、日本貨物航空は貨物機での運航は続ける。

2013/09/02

記事:最後に荒れた記者会見

http://nakano.tumblr.com/post/4196071085
参考:http://judiciary.asahi.com/articles/2011032700003.html

■最後に荒れた記者会見
 最後に、しんぶん赤旗の女性記者が質問する。質問は二つに分かれている。
 「津波に関しては想定外であったと繰り返し述べておられますが、電源がすべて失われた場合にどうするのかというのが国会で質問されています。それを想定しなかったのはなぜなのか?ということが一つ」
 「現状、最悪の場合をどのように想定されて、どのような対策を講じていらっしゃるのか、そのあたりのことをお聞きしたいんですが」
 これに対して、武藤副社長は、津波に関するこれまでの答弁を繰り返す。
  「津波につきましては当然、設計のときに考慮しております。福島第一原子力発電所は昭和40年代の設計なわけですが、その時点で、それまで経験した災害の 潮位を考慮して設計しております。さらにその後、津波の解析技術の進展がいろいろあったわけでして、そういうものが学会で知見としてとりまとめられて、そ の評価のやり方が公表されておりますので、それに基づいて、我々は最新の知見を踏まえて安全性について評価してきたと思っております」
 「私が聞いたのは『津波が想定外だったかどうか』ではなくて、電源が失われる可能性について想定しなかったのはなぜなのか?ということをお聞きしたんですが」
 武藤副社長がそれに応えてマイクを握る。
  「今回の津波で、所内の電源は地震でもってなくなったわけですが、そのときに、ディーゼル発電機はしっかり起動しているわけです。したがいまして、地震に よっては電源はなくなっていないわけです。が、そのあとの津波が発電所を襲ったところで発電所の電源を喪失しているということで、津波が今回の電源をなく した原因だというふうに言えようかと思います」
 広報部の吉田部長が「あと、おひとかた」と言うと、別の男性記者が声を上げる。
 「二つ目の質問に答えてない。こういうやり方で議事を進めるのなら、ちゃんと質問に答えてください。二つ目の質問に答えてない。最悪の事態にどう対処するのかという2つ目の質問に答えていない」
 武藤副社長が再びマイクを握る。
 「電源につきましては、地震の後、確保できていたというふうに思っております。津波によって電源を失ったということだと思います」
 しんぶん赤旗の女性記者が「電源を失った場合を想定しなかったのはなぜなのかと聞いているんです」と食い下がる。
 ひと呼吸を置いて、武藤副社長が話し始める。
  「電源をなくなった場合でも原子炉を冷やすことができるように設計はされています。ただ、これは一定の時間、バッテリーを使いながら、原子炉の中の蒸気を もって原子炉を冷やすというのが基本的な考え方でありまして、その時間を超えて電源が復旧できないような状況になるというのは、今回の津波がすべての電源 設備を利用できないような状況にしたということがあるわけでありまして。ですから津波によって電源が喪失した、というふうに申し上げました」
  広報部の吉田部長が「申し訳ありませんが、あと、おひとかたのみ、というようなことでお願いします」と会場に呼びかけると、しんぶん赤旗の記者が「まだ答 えてないでしょう、最悪の場合」と声を上げる。吉田部長がそれを無視して「申し訳ありませんが、あと、おひとかた」と言いかけると、別の男性記者が声を上 げる。「答えてないじゃないですか、ちゃんと答えてください。私も聞きたいです。その回答を」。さらに別の男性記者が声を上げる。「最悪の場合というのは どういうことを想定されているのか」
 8秒の間を置いて、武藤副社長が「外部の電源がなくなった場合に」と話し始めると、記者たちが「電源 の話じゃない」と声を上げる。間があって、武藤副社長が再び話し始める。「電源が確保されているということを前提にして、その電源が一時的にまったくなく なった状態で原子炉を冷やすということを想定して、原子炉は設計されているということです」
 しんぶん赤旗の記者が「いま今、最悪の場合をどういうふうに想定されているのかというのが私の2番目の質問です」と繰り返す。
  武藤副社長は「ですから、電源がない状態で原子炉の中に注水をするためにどういった手立てを考えておくのかということをアクシデントマネジメントとして手 順を定めて準備をしてきたということでありまして、今回も電源がない中で、まずは自分のとこで持っている蒸気でもって原子炉を冷やし、それが利用できなく なったところで外部からポンプをつないで原子炉の中に注水するということをやったということでございまして、これもアクシデントマネジメントの手順に従っ て、我々、手順を実施したということだと思っています」と言う。
 男性記者から「日本語を分かってない」という声が上がる。しんぶん赤旗の 記者の一つ目の質問は確かに、電源の喪失を事前に想定しなかったことの是非を尋ねるものだったが、二つ目の質問は、電源の話ではなく、現時点における「最 悪の場合」の想定を尋ねるものだった。会場の記者たちはそれを理解しているが、武藤副社長はそれを理解していないように見える。
 しんぶん赤旗の記者が「最悪の状況をどのように想定いらっしゃるのか」と重ねて質問する。
 武藤副社長が答える。
  「これはともかく現在の状況をできるだけ安定の状況にしなければいけないわけでして、原子炉をともかく冷やすということに尽きると思います。そのために は、原子炉の中に水を入れ続けるということが大事なわけでして、今は、原子炉への注入を引き続き続けていくことに尽きると思います」
 男性の記者が「ちゃんと答えてください」と食い下がる。別の記者が「逃げないできちんと答えたほうが東電さんのためですから」と声をかぶせる。
 武藤副社長は「原子炉の状態をともかく安定させるということだと思います」と言う。
 吉田部長が「予定の時間が参りましたので、本日はこれにて終了させていただきたいと思います。どうもありがとうございました」と言って、午後6時40分、記者会見を打ち切る。
 東電でひっきりなしに開かれてきている記者会見がこのような荒れた状態で終わるのはおそらく初めてと思われる。
 この日午前6時半の時点で福島第一原発で働くのは447人。うち東電社員は386人。「協力企業」の従業員は61人。
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